平成15年度

漆刷毛師 泉清吉

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いつの間にか漆刷毛を詳しく知る人もいなくなり、現在の漆刷毛がどんな風に始まり、そして変遷がどうであったか全くわからなくなつてきています。ここで、私が整理して記録しておくことも大事な事と考え、今回まとめてみました。ただ、父親、親類、漆工仲間からの伝聞、保存してある記録からのものであり、一部は正確な裏付けのない事柄もあることをご了承ください。

 

 
初代泉清吉は江戸の明暦の頃、八丁堀に住む仙台藩士でした。下級武士で生活は楽ではなく、副業として刀の鞘塗りをしていました。当時の漆刷毛は、馬毛などの獣毛でありましたが、人毛を使用して、しかも削りだして使うという鉛筆型の特殊な漆刷毛を考案したところ、非常に良く塗れると江戸中の漆工仲間の評判になり江戸一の盛名を博し、とうとう、泉清吉は両刀をなげうって仙台藩士をやめ、漆刷毛師となりました。
 

 

明暦2年。あの通称、振り袖大火の前年、1656年漆刷毛師泉清吉が誕生。ここから、
現在の形の漆刷毛が始まりました。当時の花形職人の町、江戸神田久右ヱ門町で仕事を始めました。

 

このころと現在の漆刷毛の製作の方法は原則的にほとんど変わっていません。変わったところは、檜の丸太から、製材済の檜になつたこと、人毛を洗うときに用いた灰が苛性ソーダに変わった事だけでしょう。ただ、私、九世 泉清吉になつてから、日本人人毛のほかに中国産人毛、木曽檜のほかにスプルースを使うことになり、材料的には大きな変化がありました。
 
さて、天保年間にはとうとう江戸幕府将軍家の御用達も命じられようになり、「御本丸西丸御用」の高張り提灯をいただきました。

この御用提灯は、なかかの威力があったらしく、例えばこんな話も伝えられています。当時、夜間に上野の山内を通行することは一般人は厳禁となっておりましたが、泉家の者がこの御用提灯を根岸の隠宅から下げてくれば、なんなく通してくれたといことです。

長い間、我が家の家宝と大事にされており、明治14年の松枝町大火事のときには店舗はもちろん、家財道具いっさいを焼失しましたが、この家宝だけは助かったということでした。しかし、残念な事に、太平洋戦争の時に焼けてしまい、現在は写真しか残っておりません。     画像 左

 
 
その後も仕事が忙しくなり、仕事場も狭くなった為、神田平永町、次ぎに平右衛門町田へと移り住みました。戦前は海軍省の御用達を受け、漆塗りは湿気を防ぐということで爆弾の内部を塗る刷毛をミカン箱で何箱も広島呉に送ったと何度も聞かされました。

また、当時よく開催されていた全国博覧会にも多数出品し賞牌58個を獲得、大隈重信侯の名前の入った賞状など現在も多数保管してあります。

そしてこのときに、七世 泉清吉は牛尾毛や猪の毛を使うことを考案し胴摺刷毛(どうずり)や刷毛目(はけめ)、立交刷毛(たてまぜばけ)を作り塗師(ぬし)に喜ばれました。

明治時代には八世 泉清吉の他に住込みの職人もおり3名ほどで漆刷毛の製作にあたっていましたが、その後独立した者も出て東京で泉を名乗る漆刷毛師が4名いたという事です。


 

その後、戦争で仕事場もいろいろと移り、私は昭和25年12月に東京文京区の駕籠町田(現在の本駒込)で生まれました。まだ祖父の七世 泉清吉(本名 赤次郎(あかじろう))も元気で仕事をしておりました。

この私の「清二」という名前もこの祖父が「清吉の二男」として付けてくれたものであり、不思議と漆刷毛師 泉清吉を継ぐ運命だったのかもしれませんね。他の兄弟には「清」の字はついておりませんから。

祖父は私が幼稚園のときに83歳でなくなりましたが、なくなる1カ月前まで仕事をしており、割合良く覚えています。
仕事場は6畳の板場で父が左側で削り仕事、祖父が右側で漆刷毛の重要な工程である「毛固め」の仕事を黙々としていました。そして、ラジオからは、祖父の好きだった今ではなつかしい浪曲が静かに流れていました。

私たち子供が仕事場に入っていくと、髪毛や木くずが服に付いてしまうことと、また気が散ることもあったのでしょう、「こっちにくるなっ!」とどなり、追い払うために浅草で買ってきた砂糖菓子を渡すのが常でありました。

 

祖父は大変な祭り好きであり、神田明神の氏子総代として御輿倉の鍵を預かり、祭りの先頭を人力車に乗って走っていました。今、思い出すと本当に威勢の良い江戸っ子職人だったなぁと思います。

当時は漆刷毛の需要もかなり有り、全国に有名無名の漆刷毛師がおりました。祖父の時代に住み込みで仕事をしていた職人の一人が京都に行き漆刷毛師になったと伝えられています。なかなか腕も良くて一時、東の泉清吉、西の誰それと相撲番付の様に言われどちらが本家かということまで出てきました。

祖父は東京と京都どちらが元祖かをハッキリさせるために元祖総本家として商標登録までしてしまいました。また東京でも泉を名乗る漆刷毛師も現れてきた為、泉清吉という名前も登録しました。

   
祖父の没後、父が八世 泉清吉となり(本名 鎮吉(しんきち))二人でやっていた仕事が父一人になり相当に大変であったと良く言っておりましたが、この頃にはすでに漆刷毛師は東京で二人、関西で二人、海南、新潟でそれぞれ一人になっておりました。

関西の漆刷毛師と泉清吉の流れを持つ東京では製作方法もかなり違っております。例えば、「毛固め」の工程では、泉清吉流では左から右に櫛を通しますが、関西では下から上に持っていきます。

さらに、クサビも木製に対して関西では竹製でもあります

 

 
私が10歳になった頃、今度は近くの文京区丸山町(現在の千石3丁目)に移りました。相変わらず、木曽檜は深川の木場の檜専門店から丸太で買っておりました。

小さな庭にはいつも直径40−50センチの丸太がおいてあり、遊びにきた小学生の友達は皆一様に不思議がっていました。その丸太を、氷を切るような大きな刃の鋸で切り、鉈で割って段々と板にしていくのです。

根の堅い部分ははクサビの材料にします。節があったり、曲がっていたりするものを取り除き、表皮の部分の白太を取ったり、目のつまり具合を見たりと板作りにもなかなかの熟練が必要なものです。

 
私は20歳の頃から父に着いて深川の木場に行くようになりましたが、最初はどれもが同じように見えて何も判断できませんでした。そして、その昭和45年頃には丸太ではなく、製材所に回してもらい所定の厚さに挽いてもらえるようになり、とても楽になりました。

他の漆刷毛師では、このようにして板作りはせずに、あらかじめ割り板にしたものからの作業になっています。

私は板材といえども、こだわりをもって大きな板材の最初から木取りもしたいのでこの方法を続けています。

 

昭和42年頃から日本人毛髪は年々集まりにくくなってきていました。人毛は「かもじ屋」という商売があり、全国を回って集めてきたものを全量引き取りの約束で盆と暮れに持ってきてくれていました。

各地の神社に奉納されたもの(難破に会い一命を取り留めた漁師は必ず神社に髪を奉納したと伝えられています。)や、日本髪を結う時に使うかもじ、地方の旧家の倉から大量に出てきた古かもじを集めていました。ですから、相当に古いものが多く、麻袋の中には、蛇の抜け殻、糸、針、が入っていることもありました。また、かもじの頭の部分には古銭が入っているため、金槌でその部分を壊すと江戸時代や明治時代の古銭が出てきて、子供心には宝探しの様でワクワクしながら手伝いをしたものです。                            

 

かもじというのは現在の中国産人毛と違い長さが一定ではありません。また、赤熊(しゃぐま)といって縮れた堅い毛もあり、選別と長さを揃える作業をしなければなりません。これらの人毛の下仕事は当時母親の仕事となっていて、天気予報を聞き、雨の心配のない日を選び、早朝から仕事にとりかかっていました。毛洗いには大量の熱湯を使うため、ドンドンと大釜に湯を沸かし油分を取るための苛性ソーダをいれて毛を洗っていきます。素早く丁寧に洗わないと髪毛が絡まってしまい使い物にならなくなってしまいます。

そして流水ですすぎ洗いををして、庭にぴんと張った紐にまっすぐに干していきます。このとき曲がって干すと乾燥後にと癖がついてしまい使えなくなるので注意を払います。

天日で完全に乾かした後、今度は、全部バラバラにほぐしてしまいます。大した重さがなくても一本一本バラバラするとびっくするぐらいふくれますので、2階の6畳間はいつも髪毛であふれていました。


 
 

私が昭和50年に埼玉蓮田に来て広重印の刷毛を作り始めた頃、毛を洗って張った紐に干していたところ、近所の子供達に「オバケ屋敷だ」と言われて苦笑しましたが、実際、夕暮れの風にそよぐ大量の髪毛は気持ちよいものではありませんね。

 
バラバラにした毛を、手触りで腰のあるなしを判別し、長さを揃えながら仕上ていきます。仕上った髪毛は、ピンとした見るからに見事なものになりますが、この作業は大変な根気が必要なのです。髪毛を僅か10−20本ずつ揃えていくのですから普通の人であれば5−10分でイライラしてしまうのではないでしょうか。

どなたも絡まった髪毛を梳かしほぐすことが大変なことは経験がおありと思います。。髪毛を引っ張る右手の親指、人差し指は夕方には熱を持ち赤くはれ上がります。そしてこれがしばらくの間、毎日続くのです。私が漆刷毛師の修行に入ったときは、この作業から始めたわけですが、大変で大変で、仕事の終わった夜には口もきけないほどにグツタリとしてあっという間に眠ってしまう毎日でした。

 
大学卒業間近の昭和48年頃には、段々と品不足と高価格のオイルショツクが近づいてきました。かもじ屋さんが持ってくるたびに人毛の価格は上がり、檜も木場に行くたびに高くなり続けました。段々と父も高額の材料の支払いに困るようになり、とうとう大幅な漆刷毛の値上げをせざるを得なくなりました。しかしお客さんからは「あまりに高くなってびっくりしました。」「骨董品のような値段だな」などと言われるようになりました。

材料の手当で本当に仕方のないことでしたが、相当に応えたのか、これ以後16年間亡くなるまで、材料代が上がっても漆刷毛の価格を上げることはしませんでした。この時期、一部の漆刷毛師には、粗製濫造と言われても仕方のないようなみられたようなごまかした刷毛を作る者もおりました事は事実であり、残念です。

 
大学卒業の47年、電気メーカーに私はなりたかったエンジニアとして就職し、放送用ビデオカメラNC-1000の開発に携わっていましたが、同じモノづくりでも自分のめざしているものとはあまりに違う事がわかり、49年2月12日、退職しました。

私が求めるモノづくりは1から10まで自分の手足、手足の延長の道具で作り、自分の目で確認、責任をもてる範囲に絞るハンドメイドの世界でした。翌日から、やめることを良いとも悪いとも何も言わなかった、父、八世 泉清吉に強引に弟子入りしました。

代々の家業であるからするのではなく、自分が一生をかけてやりたい仕事として漆刷毛師になったことは私のささやかな誇りです。

 
  子供の頃から遊び半分で手伝って事もあり、仕事の基礎はでき上がっていました。父はやはり昔気質の職人であり、仕事を教える、ということは全くありませんでした。私もそれを当然のごとく受け止め横目で見ながらやり方を覚えていきました。
 
しかし、オイルショックの事から考え、このままではいずれ漆刷毛は材料難に陥りやっていけなくなるのではないかと思い始めました。

そこで、反対はしないが賛成もしない父を説得して、私だけでも伝統の材料を使った漆刷毛だけでなく、輸入材料を使った漆刷毛も作ることに踏み切りました。

輸入の材料を使うため、その頃には選定保存技術保持者の指定を受けていた父の泉清吉刷毛としてではなく、別に考えだした「広重」という名前を使いました。板はアラスカ檜のスプルース、人毛は中国産人毛を使いました。

このとき踏み切らなかったら、2004年現在漆刷毛は消滅していたことは間違いありません。もちろん、江戸以来の材料を使った泉清吉刷毛も製作し続けています。


また、段々と世間の仕事のやり方も変わりました。以前は、いつできるかと聞くこともなく頼んでおく、といったのんびりとした注文方法でしたが、納期を聞かれるようにもなり、それに応えるために、材料や刷毛の在庫も少しずつ持たなくてはなりませんでした。元々狭い文京区の家では手狭になってきたため、昭和50年、私だけ、埼玉の蓮田に工房を構えることにして、3年ほどは東京と埼玉を言ったり来たりして製作していました。

何度言っても、父は最後まで江戸以来のやり方を守り材料はすべて国産を使い続けました。考え方も生き方も最後の江戸っ子職人でした。まだ職人が幸せな生き方ができた時代であったと思います。

 
私は父からの伝統の製作技術を受け継ぎながらも、生来の気性で、なぜこうして作るのか、なぜこの材料なのか、なぜこうすると失敗するのかを考え続けてきました。

 

私は、伝統を守るとは昔の方法をそのまま固執するものではなく、時代に合わせて製作方法を変化させながら生かし続けることだというふうに考えます。作っているものが伝統ある漆刷毛の形をしているだけで、私の心の中では現代のモノを現代の技術で作り上げている感覚なのです。

1656年以来348年続いている漆刷毛を21世紀の時代にあった漆刷毛に対応させて作り続けていきたいと思っています。日本の伝統漆工芸、貴重な文化財の修復に私の漆刷毛が少しだけでもお役に立てば本望です。